猫沢エミのインスタグラム(necozawaemi) - 5月10日 02時50分


ただの恋愛小説ならば、読了できなかったかもしれない平野啓一郎 《マチネの終わりに》。 そもそも平野さんが〝ただの恋愛〟を描くわけがない、というところまで書いて、果たして恋愛に、ただも特別もあるのだろうか?という疑問が湧きつつも、やっぱりこれはただの恋愛小説ではなかったな、と確信を得る。

ギタリスト蒔野聡史と、ユーゴスラヴィア人の映画監督を父に、日本人の母を持つジャーナリストの小峰洋子の運命の恋物語は、社会と強くリンクしてしまった〝大人〟という悲劇的な立場の人間ふたりが恋をすると、あまりにも多くの波に翻弄されてしまう様が、精緻な文体でまざまざと描かれている。

物語の背景にある2006年から2012年までの5年半、日本と世界で起きた歴史的な事件のグローバルな視点と、ひとりの男と女、というミニマムな視点の振れ幅は、先に読んだ《ある男》にも通じるところなのだけど、ここで描かれる恋愛以外のその他の事象にこそ、目を見張る深い洞察が隅々まで張り巡らされている。

自分も音楽家のはしくれであるから、当然、蒔野が見舞われるスランプやレコード会社の世界的な衰退などは、痛いほどよくわかるのだけど、じゃあミュージャンでなければ、そこの描写は理解できないのかといえば、そんなことは決してないはず。なんの職業であれ、必ず訪れる自身のキャリアを見直す変革期の苦悩は、読む人に蒔野の苦悩を少なからず理解させる。そうした作家の手腕とは、読者があるエピソードに対してジャンルを超えて個人の感慨を投影することができる、レベルの高い事象モデルを紡ぎ出すこと。平野さんの卓越した世界の構築に、ため息が出る。

キリスト教的な善悪の振り分けや、告解という独りよがりな罪逃れ。または、仏教的な揺らぎを内包した善悪の定義や、嘘も方便という優しさ。そのなかで巻き起こる〝あってはならない作り話のような悲劇〟に、私は読了までの数日間、おおいに振り回され、嘆き、焦燥した。

私を含む、この世界に存在する人間の多くは、男女の愛の末に生まれてきた命なのだけど(現代では、選択肢が多様化しているとはいえ)、その出発点がたとえ間違っていたり、のちに間違っていたと気付くものであっても、生まれ出でた命の価値や崇高さにはみじんの疑いもない。逆を言えば、その生まれた命の肯定が、生んだ男と女の、その後の愛の気づきに関与するものではないことも事実なのだ。

どんなに翻弄され、抑制され、引き離されたとしても、その愛が生涯をかけるほどの価値あるものならば、ふたりはいつか、かならずまた出逢う。

最後のページを読み終えた時、フランスでその昔、まことしやかに聞いた『本当の愛は、一度死んでから初めて生まれる。』という誰かの言葉を私は思い出していた。

#猫沢図書館 #マチネの終わりに #装丁の美しさよ


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2019/5/10

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