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香川真司のプロフィール

名前:香川真司(サッカー選手)
生年月日:1989年3月17日
出身地:兵庫県

Jリーグ開幕をきっかけに、幼稚園の年長のころからサッカーをはじめ、小学校にあがると少年サッカークラブ「マリノスポーツクラブ」に所属。本格的にサッカーをはじめることとなった。「マリノスポーツクラブ」での練習以外は、自宅の近くにある公園でずっとサッカーをしていたほど夢中に。リフティングをしたり、友人たちとゲームをしたりして、香川真司の原点であるストリートサッカーはこの時期に育まれていた。小学校5年生になると、「神戸NKサッカークラブ」へ移ると、この「神戸NKサッカークラブ」の監督がFCみやぎバルセロナの監督の知り合いだったため、監督の紹介で小学校5年生の冬休みに2週間ほどFCみやぎバルセロナの合宿に参加すると、合宿でサッカー三昧の日々をとても楽しいと感じ、サッカーにのめり込むようになった。FCみやぎバルセロナの合宿に参加したことで、サッカーが香川真司の主軸になり、中学生になるのを機に、親元を離れて単身仙台へ。生活の拠点を移すことは、FCみやぎバルセロナに通うためだったため、中学1年生にあがってすぐの半年間は、FCみやぎバルセロナの関係者の家にホームステイする形を取っていたが、神戸から祖母が移住し、中学生活の残りの2年半は祖母と2人暮らしをしていた。この頃、少年・香川真司を育てていた祖母からは、感謝の気持ちを持つことを毎日教えられていたそう。自分のやりたいと思ったサッカーをできているのは、自分一人の力ではなく、いろんな人の支えがあってこそ、というのを中学生時代から祖母に教えられてきたため、香川真司は感謝の気持ちを持つことは当たり前になっているとか。
祖母に育てられながら、香川真司少年は仙台市立八乙女中学校に通いながら、FCみやぎバルセロナでサッカーに熱中する中学校時代を過ごすことになったのは、香川真司が生活の拠点を移してまでFCみやぎバルセロナでサッカーをすることを選んだのは、FCみやぎバルセロナの“個を伸ばしたチームづくり”。FCみやぎバルセロナに行きたいと決めた当時、まだ香川真司は小学生だったものの、自分に合うチームでサッカーがしたいと思っていたそうで、地元の神戸には香川真司にとって魅力的なサッカークラブがなく、FCみやぎバルセロナの個性的なチームに刺激を受け、FCバルセロナに行ったらプロになれるのでは、と思ったことがそのきっかけ。そんな中学時代、香川真司は自身の夢に近づく、“ナショナルトレセン”や“U-15”に選ばれ、全国にいる同世代のサッカー少年たちとプレーする機会に恵まれた。

高校生になった香川真司は、そのまま宮城に残り、宮城県黒川高等学校に進学。もちろんサッカーも続けていたのだが、高校は住んでいたところから15km以上も離れた場所にあったり、放課後に通うサッカーの練習場は高校から40分ほどの距離、練習場から住んでいたところにかえるまで20分と、1日35kmほどは毎日自転車を漕いでいた。この自転車を漕いで移動していたことは、香川真司の足腰を鍛えるトレーニング代わりにもなり、サッカーにも役立っていたとか。そんな高校生活のなか、1年生のときには日本クラブユースサッカー選手権(U-18)大会に出場。香川真司が所属していた「FCみやぎバルセロナ」は有力チームの1つとして一目置かれていたものの、高校1年生の香川真司については、主力選手として見ている人はなかなかいない状態だった。そんな状況だったものの、この日本クラブユースサッカー選手権に出場した香川真司は、チームがボールを奪うとボールを受けに出て行き、ドリブルで試合を魅了。そんな香川真司の活躍もあり、「FCみやぎバルセロナ」はグループリーグを無敗で勝ち上がったものの、準決勝で鹿島アントラーズユースに破れた。この頃から香川真司の武器はドリブルと認識されるようになり、高校2年になると、武器のドリブルをゴールにつなげられるように成長。そして2005年9月に行われた仙台カップ国際ユースサッカー大会は香川真司の実力を世に知らしめる大会となった。
仙台カップ国際ユースサッカー大会は、仙台市に日本と海外の年代別代表を招いた試合で、ホストとして地元である東北地方の高校選抜が参加していたもの。香川真司が周囲を圧倒させた同年の大会には、U-18日本代表、U-19クロアチア代表、U-18ブラジル代表、U-18東北選抜の4チームが総当たりで行ったもので、香川真司はU-18東北選抜に参加していた。香川真司はこの試合に参加するにあたり、「ここで活躍すれば、代表に入れるチャンスがある」という気持ちを高めていたほど、この試合を楽しみにしていた。そんな香川真司は、ブラジルやクロアチアの代表に対して、香川真司の武器である、なめらかでキレのあるドリブルを披露。この香川真司の活躍は世界の強豪DFも崩すほどで、香川真司を自国に連れて行きたいと言われたほど。絶好調の香川真司は、この大会の最終戦、多くの代表関係者が見守る、U-18日本代表との試合でも華麗なドリブルを披露し、U-18日本代表のDF陣を圧倒させ、3アシストで5-2と圧勝してみせた。ちなみにこのときのU-18日本代表のメンバーには、のちに日本代表としてともに活躍する、内田篤人や槙野智章、吉田麻也などがいたのだ。そんな期待されていたメンバーたちを揃えたU-18日本代表が、地方の選抜チームに負けた、という衝撃は、多くの関係者の耳に届き、この大会のMIPに香川真司が輝くと、高校2年生という異例の速さでJリーグ入りを決めることとなった。

香川真司は16歳でJリーグ史上初の高校生Jリーガーとなったため、学業と両立させるため、所属するセレッソ大阪と業務提携していたウィザス高等学校に転校。通信制ということもあり、香川真司の高校生活は3年生のときからサッカー一色に染まることとなった。当時高校2年生の香川真司に、FC東京とセレッソ大阪からのJリーグのオファーが来ていたのだが、香川真司が選んだのはセレッソ大阪のオファー。その理由は、地元に近いところでプレーができるというのが大きかったようだ。いままでは仙台でサッカーをプレーして来たものの、やはり自分を支えて来てくれている両親にも近くで自分のサッカーを見てもらって、活躍することで親孝行したいと考えていたそう。こうして目標にしていたJリーガーになる夢を達成させた香川真司は、自身のプレーをセレッソ大阪で磨き、2007年シーズンにはセレッソ大阪のレギュラーの座を獲得。当時セレッソ大阪はJ2だったものの、1シーズンのうち35試合に出場
し5得点をあげる好成績を出し、カナダで開催されたU-20W杯に飛び級で選ばれるなど、日本代表への道も確かなものにしてきた。
2008年のシーズンでは、所属のセレッソ大阪で主力選手として活動するようになり、リーグ戦の35試合で16得点を獲得するほどに成長。香川真司への評価はどんどん上がっていき、U-19日本代表や、U-23に飛び級で選出されて北京オリンピックに出場するなど、活躍の場は日本国内だけでなくなった。
香川真司の実力が認められ、セレッソ大阪の背番号「8」を背負うようになった翌年の2009年も好成績を収めた。その成績は、リーグ戦での27得点だ。この記録でJ2得点王に輝いた香川真司のの成績は所属チームを導く結果にもつながり、セレッソ大阪は2010年シーズンにはJ1へ昇格。所属チームをJ2からJ1に昇格させる原動力となった香川真司は、他のチームへの移籍が噂されるほどの実力を持つ選手へとなっていた。J1開幕は、移籍せずにセレッソ大阪で迎えたものの、同年7月には、ドイツのブンデスリーガ1部のボルシア・ドルトムントに移籍。じつは2009年12月にドルトムントのホームの試合に招待されていて、そのときに香川真司自身からドルトムントへの移籍の意思を提示していたのだとか。ドイツのドルトムントへ移籍した香川真司の移籍後の公式戦初得点を獲得したのは、UEFAヨーロッパリーグプレーオフ第1戦でFKカラバフと試合。その後も得点を獲得し、MFとして登録された選手のなかでブンデスリーガ1位を誇る、リーグ前半期の17試合での8得点を獲得すると、香川真司はブンデスリーガ公式サイトで最優秀選手並みの活躍と評価された。ケガに悩まされることもあったが、香川真司はしっかりとドルトムントの顔となり、ときにはサポーターから「カガワコール」が送られることもあった。

ドルトムントへの移籍後も日本代表としての活動も続けていた香川真司は、国内外問わず、サッカー選手としての評価をあげることとなった。そして2012年には、名門とも称されるイングランド・プレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドに移籍。マンUYの契約は、2012年7月からの4年間で、移籍後の背番号はセレッソ大阪時代にも着用していた「26番」を背負うことになった。移籍後すぐの同年8月20日、リーグ開幕戦である、エヴァートンFCとの試合でプレミアリーグへのデビューを果たし、第2節のフラムFC戦でプレミアリーグ初得点を収めた。その後、負傷などで2ヶ月ほど試合出場を見送ったりもしたが、2013年2月のチャンピオンズリーグ・決勝トーナメントに出場。この試合で香川真司はマンチェスター・ユナイテッドの先発メンバーとしてレアル・マドリードに挑み、マンチェスター・ユナイテッドのアウェイゴール獲得に貢献する存在感を見せつけた。この大会では、決勝トーナメント出場を果たした5人目の日本選手となり、同年4月のノリッジ・シティ戦では、ヨーロッパへの移籍後、プレミアリーグにおいてアジア出身の選手初のハットトリックを決めるなど、好成績を収めることになった。この活躍で香川真司が所属するマンチェスター・ユナイテッドは2シーズンぶりのリーグ優勝を達成し、香川真司自身もヨーロッパ移籍後3シーズン連続でリーグタイトルを獲得するほど、香川真司は世界で活躍できるサッカー選手へと変わっていった。しかし、2013-14シーズンは香川真司のスキルと体調面のリズムがなかなか合わず、公式戦で無得点という残念な成績で終わってしまった。この最後の年の成績もあって、香川真司はマンチェスター・ユナイテッドを離れ、古巣であるドイツのドルトムントへ移籍することへとなった。

ドルトムントに戻った香川真司は、復帰戦となったブンデスリーガ第3節SCフライブルク戦で先発出場し、移籍後の初得点を獲得。これまでの酷評を吹き飛ばすような活躍が期待されたのだが、結果は振るわず、ドルトムント自体も不振で、一時は暫定順位でブンデスリーガの最下位を記録してしまうほど、逆風に悩まされることになた。ドルトムントの不振期は香川真司の調子もなかなか戻らなかったのだが、シーズン後半戦で調子を上げた香川真司は、ドルトムントは翌シーズンのUFFAヨーロッパリーグ出場権の獲得に貢献した。翌シーズンである2015-16seasonでは、昨シーズンの不調もあり、監督が変わったのだが、この監督が変わった新体制で戦術も変わり、香川真司のポジションも変更。その戦術が良かったのか、ドルトムントはUEFAヨーロッパリーグに参加し、決勝トーナメントへの進出を決めるまで成績をあげてきた。もちろんドルトムントの好調の陰には、香川真司の活躍があり、ブンデスリーガ公式サイトがTwitterでベストイレブンを決める施策を行うと、香川真司はそのベストイレブンに選ばれただけでなく、トップ下部門1位に輝く評価を得た。セレッソ大阪から世界に飛び出した香川真司は、ドルトムントの活躍が目覚ましく、2017年にはブンデスリーガ通算38得点目を獲得し、ブンデスリーガにおける日本人最多得点を記録するなど、ドルトムントだけではなく、ブンデスリーガにも欠かせない選手へと成長した。
そんな香川真司は、サッカーファンならずとも国内で知られる存在に。その理由は2008年から活躍する、日本代表として見せるプレーだ。サッカー日本代表の試合といえば、街がお祭り騒ぎになるほどの人気となった最近では、プレーの高さだけでなく、イケメンやおしゃれなど、外見への評価も人気の1つとなっている。実際、香川真司の人気も高く、とくに同姓からは、髪型を真似したいという声も。小中高と、サッカーにのめり込んで来た香川真司は、サッカーに対してバカ真面目だったものの、日本代表として支える存在となり、プレミアリーグを経験した2015年ごろからは髪型がおしゃれになったと注目されることも増えるようになった。香川真司の髪型といえば、前髪のあがった「アップバング」といわれる髪型や、ツーブロックにすることが多いようだ。そんな香川真司の最近の髪型はツーブロック×七三分け。香川真司ならではの髪型、というよりも、最近の流行りの髪型に近いが、香川真司のような髪型を目指す男性が多いとか。髪型も真似されるほどの人気と、海外のリーグで第一線で活躍する実力を兼ね備えた香川真司はまだアラサーだ。サッカー一筋できた香川真司の今後の活躍は大いに期待されている。

主な出演

・CM
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