笠井信輔さんのインスタグラム写真 - (笠井信輔Instagram)「26年前の今日、阪神淡路大震災が発生しました   私は震災当日の午前中には被災地に入り、東京のどの局の取材班よりも早く取材を始めましたが、それは壮絶な体験でした  ちょうど1年前、私は病室で当時の思いをブログに書かせていただきました。しかし、思いを収める事は出来ませんでした   今日はその続きを書かせていただきたいと思います   ーーーーーーーーー   あまりにも大きな災害を目の前に、私たち取材スタッフ4人は助けを求める被災者の皆さんの力になることができず とにかくこの惨状を日本中に、世界に伝えなければ、と 「救出活動」よりも「伝えること」を優先して 撮影を行って リポートをして インタビューをして それを中継車にもっていくことを繰り返していました      食料も着替えも用意せずに、いつものように出動した私たち取材班は、ほとんど寝ずに過ごした3日目にメンタルが崩壊してしまいました   「こんな取材でいいのだろうか?」 「もっとやるべきことがあるのではないか?」 「これ以上もうこの惨状を見たくない」 「いや、伝え続けなければいけない」   様々な葛藤とストレスの中で スタッフ間で大喧嘩が始まってしまって 私たちは帰京せざるをえなくなったのです      私と担当ディレクターは、それからずっと考えていました   助けを求められても協力できなかった人たち インタビューに泣きながら答えてくれた人たち 怒っていた人たち 関西人魂か、笑ってお話ししてくださった方たち   あの人たちは、その後どうしただろうかと   そこで深夜の「ザ・ノンフィクション」と言うドキュメンタリー枠に2人で企画書を出して番組を作りました   あの時インタビューをした名前も聞かなかった人たちを探し出して、1年後の1月17日にどうしているか、サプライズの形で訪ねて行こうという番組です   ディレクターが1週間前に現地に入って当時インタビューをした方の映像をもとに調査を始めると10人くらいの方の移り住んでいるところが分りました   そして1月17日、何の約束もせずに、突然私はその方々を訪ねました   みなさん、突然現れた私にとても驚いていましたが、喜んでくださいました   そして今でも強烈に覚えているのですが、多くの方が私を見て、 私の手を握って、 「大丈夫でしたか」 「お元気でしたか」 と私のことを心配してくださったんです   街全体が崩壊してしまった、マンションも横倒しになるような光景の中で出会った私のことを 東京から来た取材者と言うよりは、 あの震災を一緒に体験した人と言う、そんなふうに捉えていてくださっていたのです   温かなその気持ちに目頭が熱くなりながら取材をしました 「お元気でしたか?」 と声をかけなければいけないのはこちらの方なのに…   震災当日、水道もガスも電気も止まってしまったことを、長々と怒りを持って話してくださったご婦人にも再会しました   しかし、 「私はテレビのインタビューなどを受けていません」 ときっぱりとお答えになるんです   そこで当時のインタビュー映像をお見せすると、とても驚かれて   「ほんとだ、私インタビューに答えていたんですね」   そう答えてくださった方のお顔は当時とは別人のような穏やかな表情になっていました   わずか1年前の壮絶な体験ですが、あまりにも強烈すぎて、当時のことをよく覚えていない方、そういう方がいると言うこともわかりました   一方でいまだに心の傷を抱えている方もいらっしゃると思います   おそらく、大災害を体験した方にしかわからないことということがたくさんあるはずなのです   去年の私のブログには、たくさんの体験コメントが寄せられました それを拝見すると、皆さんは今でも様々な思いを抱えていらっしゃることがわかりました 涙なしには読めない、そんなコメントもありました   その中身は、出版した本「生きる力」にも書かせていただきました   そうした方々に、少しでも穏やかな日々が訪れるようにと願っています   1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災 その犠牲となった6434人の方のご冥福を 心よりお祈りいたします    #阪神淡路大震災  #阪神淡路大震災から26年」1月17日 17時38分 - shinsuke.kasai

笠井信輔のインスタグラム(shinsuke.kasai) - 1月17日 17時38分


26年前の今日、阪神淡路大震災が発生しました

私は震災当日の午前中には被災地に入り、東京のどの局の取材班よりも早く取材を始めましたが、それは壮絶な体験でした

ちょうど1年前、私は病室で当時の思いをブログに書かせていただきました。しかし、思いを収める事は出来ませんでした

今日はその続きを書かせていただきたいと思います

ーーーーーーーーー

あまりにも大きな災害を目の前に、私たち取材スタッフ4人は助けを求める被災者の皆さんの力になることができず
とにかくこの惨状を日本中に、世界に伝えなければ、と
「救出活動」よりも「伝えること」を優先して
撮影を行って
リポートをして
インタビューをして
それを中継車にもっていくことを繰り返していました



食料も着替えも用意せずに、いつものように出動した私たち取材班は、ほとんど寝ずに過ごした3日目にメンタルが崩壊してしまいました

「こんな取材でいいのだろうか?」
「もっとやるべきことがあるのではないか?」
「これ以上もうこの惨状を見たくない」
「いや、伝え続けなければいけない」

様々な葛藤とストレスの中で
スタッフ間で大喧嘩が始まってしまって
私たちは帰京せざるをえなくなったのです



私と担当ディレクターは、それからずっと考えていました

助けを求められても協力できなかった人たち
インタビューに泣きながら答えてくれた人たち
怒っていた人たち
関西人魂か、笑ってお話ししてくださった方たち

あの人たちは、その後どうしただろうかと

そこで深夜の「ザ・ノンフィクション」と言うドキュメンタリー枠に2人で企画書を出して番組を作りました

あの時インタビューをした名前も聞かなかった人たちを探し出して、1年後の1月17日にどうしているか、サプライズの形で訪ねて行こうという番組です

ディレクターが1週間前に現地に入って当時インタビューをした方の映像をもとに調査を始めると10人くらいの方の移り住んでいるところが分りました

そして1月17日、何の約束もせずに、突然私はその方々を訪ねました

みなさん、突然現れた私にとても驚いていましたが、喜んでくださいました

そして今でも強烈に覚えているのですが、多くの方が私を見て、
私の手を握って、
「大丈夫でしたか」
「お元気でしたか」
と私のことを心配してくださったんです

街全体が崩壊してしまった、マンションも横倒しになるような光景の中で出会った私のことを
東京から来た取材者と言うよりは、
あの震災を一緒に体験した人と言う、そんなふうに捉えていてくださっていたのです

温かなその気持ちに目頭が熱くなりながら取材をしました
「お元気でしたか?」
と声をかけなければいけないのはこちらの方なのに…

震災当日、水道もガスも電気も止まってしまったことを、長々と怒りを持って話してくださったご婦人にも再会しました

しかし、
「私はテレビのインタビューなどを受けていません」
ときっぱりとお答えになるんです

そこで当時のインタビュー映像をお見せすると、とても驚かれて

「ほんとだ、私インタビューに答えていたんですね」

そう答えてくださった方のお顔は当時とは別人のような穏やかな表情になっていました

わずか1年前の壮絶な体験ですが、あまりにも強烈すぎて、当時のことをよく覚えていない方、そういう方がいると言うこともわかりました

一方でいまだに心の傷を抱えている方もいらっしゃると思います

おそらく、大災害を体験した方にしかわからないことということがたくさんあるはずなのです

去年の私のブログには、たくさんの体験コメントが寄せられました
それを拝見すると、皆さんは今でも様々な思いを抱えていらっしゃることがわかりました
涙なしには読めない、そんなコメントもありました

その中身は、出版した本「生きる力」にも書かせていただきました

そうした方々に、少しでも穏やかな日々が訪れるようにと願っています

1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災
その犠牲となった6434人の方のご冥福を
心よりお祈りいたします

#阪神淡路大震災
#阪神淡路大震災から26年


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2021/1/17

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