ダンデライオン・チョコレート・ジャパンさんのインスタグラム写真 - (ダンデライオン・チョコレート・ジャパンInstagram)「日本に最初にチョコレートが伝わったのは、江戸時代の長崎だったと言われています。 今回は、ここ日本でチョコレートがどのように発展したのか、探って行きたいと思います。   ■日本での広がり 1979年、長崎で有名な遊女町・丸山町の記録「寄合町諸事書上控帳」に、遊女が出島のオランダ人からもらった品として「しょくらあと 六つ」と記されています。これは日本で最古のチョコレートの史料です。  その後1868年、パリ万国博覧会に幕府代表として赴いた徳川昭武が「徳川昭武幕末滞欧日記」に「朝8時、ココアを喫んだ後、海軍工廠を訪ねる」と記しています。公式な文献としては、1873年にフランスのチョコレート工場を見学した欧米視察派遣特命全権大使だった岩倉使節団が記したもので、「錫紙にて包み、表に石版の彩画などを張りて其美をなす、極上品の菓子なり。此菓子は人の血液に滋養をあたえ、精神を補う功あり」と残されています。  日本初のチョコレートは、1878年東京・両国の米津凮月堂(現在の東京凮月堂)が販売したチョコレートです。ただ、この時は輸入したチョコレートを溶かしたものを加工していました。また、チョコレートは漢字で「貯古齢糖」等と表記されていました。  1899年、森永西洋菓子製造所(現 森永製菓)の創業者・森永太一郎がアメリカから帰国し、キャラメルなどのお菓子とともに、チョコレートクリームの製造販売を始めます。これが日本で最初のチョコレートの工業化となりました。  1918年には生産機材を海外から輸入し、技術者を招き、初めてカカオ豆からチョコレートを一貫して製造することに成功します。この史実から、初の国産ミルクチョコレート、そして日本で初めてBean to Bar チョコレートを作ったのは、森永製菓と言えます。  1918年には東京菓子(現 明治)もチョコレートの販売を開始します。当時まだ馴染みのなかったチョコレートの機械を導入して生産することは、金銭的にも技術的にも困難が多かったと想像できますが、この企業努力のおかげでわたしたち日本人も美味しいチョコレートに出会い、楽しめるようになりました。  昭和に入ると、チョコレートの需要は更に高まりましたが、日中戦争や太平洋戦争によって生産が止まってしまいました。1937年に日中戦争が始まると、1940年にはカカオ豆に輸入制限がかかかり、軍需用以外のチョコレートの製造は中止されます。  そんな中、チョコレートの代替品も開発されるようになりました。カカオ豆の代わりにはチューリップや百合の球根など、砂糖の代わりにブドウ糖、ココアバターは植物油で代用し、バニラで風味付けをしていたそうです。  1945年、戦後アメリカ軍が日本に持ち込んだチョコレートをきっかけに、再度チョコレートが普及します。当時の子供たちがアメリカ兵に叫んだ「ギブ・ミー・チョコレート」というフレーズは、歴史の教科書にも残る一文として記されています。  1950年、カカオ豆の輸入も再開されます。2年後には砂糖が自由販売に、そして1960年にはカカオ豆とココアバターの輸入も自由化され、日本のチョコレート業界が進展します。様々な形やフレーバーの展開、ビスケット生地と合わせたものなど、わたしたちが今でも馴染みのあるチョコレートが多く開発・発売され、日本人のお菓子として定着して行ったそうです。   *『チョコレートの歴史を知ろう - 海を渡って進化するチョコレート』では、カカオの発祥から現在のクラフトチョコレートの成り立ちまで、幅広く解説しています。興味のある方は、WEBサイトの記事も合わせてお読みいただけると幸いです。   Photo by @dandelionchocolate   #dandelionchocolate #ダンデライオンチョコレート #beantobar #ビーントゥーバー #craftchocolate #クラフトチョコレート #chocolate #チョコレート #cacao #カカオ #日本 #日本のチョコレート歴史」11月24日 15時46分 - dandelion_chocolate_japan

ダンデライオン・チョコレート・ジャパンのインスタグラム(dandelion_chocolate_japan) - 11月24日 15時46分



ダンデライオン・チョコレート ファクトリー&カフェ蔵前 - Instagrammers Gourmet


日本に最初にチョコレートが伝わったのは、江戸時代の長崎だったと言われています。
今回は、ここ日本でチョコレートがどのように発展したのか、探って行きたいと思います。


■日本での広がり
1979年、長崎で有名な遊女町・丸山町の記録「寄合町諸事書上控帳」に、遊女が出島のオランダ人からもらった品として「しょくらあと 六つ」と記されています。これは日本で最古のチョコレートの史料です。

その後1868年、パリ万国博覧会に幕府代表として赴いた徳川昭武が「徳川昭武幕末滞欧日記」に「朝8時、ココアを喫んだ後、海軍工廠を訪ねる」と記しています。公式な文献としては、1873年にフランスのチョコレート工場を見学した欧米視察派遣特命全権大使だった岩倉使節団が記したもので、「錫紙にて包み、表に石版の彩画などを張りて其美をなす、極上品の菓子なり。此菓子は人の血液に滋養をあたえ、精神を補う功あり」と残されています。

日本初のチョコレートは、1878年東京・両国の米津凮月堂(現在の東京凮月堂)が販売したチョコレートです。ただ、この時は輸入したチョコレートを溶かしたものを加工していました。また、チョコレートは漢字で「貯古齢糖」等と表記されていました。

1899年、森永西洋菓子製造所(現 森永製菓)の創業者・森永太一郎がアメリカから帰国し、キャラメルなどのお菓子とともに、チョコレートクリームの製造販売を始めます。これが日本で最初のチョコレートの工業化となりました。

1918年には生産機材を海外から輸入し、技術者を招き、初めてカカオ豆からチョコレートを一貫して製造することに成功します。この史実から、初の国産ミルクチョコレート、そして日本で初めてBean to Bar チョコレートを作ったのは、森永製菓と言えます。

1918年には東京菓子(現 明治)もチョコレートの販売を開始します。当時まだ馴染みのなかったチョコレートの機械を導入して生産することは、金銭的にも技術的にも困難が多かったと想像できますが、この企業努力のおかげでわたしたち日本人も美味しいチョコレートに出会い、楽しめるようになりました。

昭和に入ると、チョコレートの需要は更に高まりましたが、日中戦争や太平洋戦争によって生産が止まってしまいました。1937年に日中戦争が始まると、1940年にはカカオ豆に輸入制限がかかかり、軍需用以外のチョコレートの製造は中止されます。

そんな中、チョコレートの代替品も開発されるようになりました。カカオ豆の代わりにはチューリップや百合の球根など、砂糖の代わりにブドウ糖、ココアバターは植物油で代用し、バニラで風味付けをしていたそうです。

1945年、戦後アメリカ軍が日本に持ち込んだチョコレートをきっかけに、再度チョコレートが普及します。当時の子供たちがアメリカ兵に叫んだ「ギブ・ミー・チョコレート」というフレーズは、歴史の教科書にも残る一文として記されています。

1950年、カカオ豆の輸入も再開されます。2年後には砂糖が自由販売に、そして1960年にはカカオ豆とココアバターの輸入も自由化され、日本のチョコレート業界が進展します。様々な形やフレーバーの展開、ビスケット生地と合わせたものなど、わたしたちが今でも馴染みのあるチョコレートが多く開発・発売され、日本人のお菓子として定着して行ったそうです。


*『チョコレートの歴史を知ろう - 海を渡って進化するチョコレート』では、カカオの発祥から現在のクラフトチョコレートの成り立ちまで、幅広く解説しています。興味のある方は、WEBサイトの記事も合わせてお読みいただけると幸いです。


Photo by @dandelionchocolate


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2020/11/24

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