和田彩花のインスタグラム(ayaka.wada.official) - 8月8日 22時01分
Art
「モダン・ウーマンーフィンランド美術を彩った女性芸術家たち」
エルガ・セーセマン
《カフェにて》1945年
絵の具がどう塗られているのかよく見えてきますね。
絵の具を使って画面に人物を造形していくように、、、そう、絵画ですが絵を描いているというよりも、人物を造形していくって言葉を当てはめたくなります。
画面左下のグラスと手に持った煙草、
タイトルにあるようにカフェでの一場面。
画面の人物の目は曖昧に描写され、表情を見出すことが難しいです。少し不気味に思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。
戦争があった当時の状況を考えると少し陰鬱な雰囲気が漂っていることへの理解につながるかもしれません。
この作品を見ていると、どんな状況下でも目に映るものに対して自分の色を持って、造形をもって取り組んでいく姿、いつでも画家でいる彼女の姿が見えてくるようです。
「モダン・ウーマンーフィンランド美術を彩った女性芸術家たち」
上野、国立西洋美術館
9月23日まで
[BIHAKUEN]UVシールド(UVShield)
gris_bleu_official
"フィンランド美術"って初めて聞きました。
僕のイメージの中の"フィンランド"は北欧の中でもいちばん独特な国で、、他の北欧の国とは違って、アジア系の血が濃いらしい。とか。日本に好感を持ってくれている人が多いらしい。とか。断片的な情報があります。
僕にとってフィンランドはどこかすごく気になる国です。
ところで、
ちょっと前にノルウェーの画家"ムンク展"があって、、
今は彩花さんが紹介された"このフィンランドの画家の展覧会"があって、、
ちかぢか、、デンマーク画家の"ハマスホイ展"がある。。
北欧ブームなのでしょうか。。
(一方で、、ウィーンやチェコの、東ヨーロッパにもスポットライトが当たっているように感じます。)
かなりかなり興味深いです。
彩花さんの言葉、、
"絵を描くというよりも人物を造形していく"
は僕がつい最近見た展覧会以来、感じていたことに、強力につながった気がしています。
僕は国立国際美術館の、
"抽象世界展"
(2000年以降に発表された抽象絵画を集めた展覧会。)
を最近見たんですが、
実はこの展覧会を見ている時、僕も思いがけず、彩花さんがこの記事に書かれていることに近いことを強烈に感じたんです、、
"絵画が2次元の芸術、だというのは根本的な間違いなんじゃないか。"
ということをです。 "抽象世界展"以降、僕は、
もしかしたら、、そもそも絵画は"平面ではない"んじゃないか、、と感じ続けているんです。
だからこそ、展覧会に行かないと絶対にわからないものがたくさんあるのかもしれませんし、、
そもそも絵画は、
どこまで行っても2次元ではないし、
2次元になることすらできない。。
むしろ本質的に、2次元から出よう、2次元以上の何物かになろう。
と葛藤しているのが"絵画"なのかもしれない。。
純粋に二次元の存在になることを目指した抽象絵画ですら、、けっきょくは二次元的な存在になることはできなかった。。 そのことに意識的に向き合ったのが、印象派でもありゴッホでもあり、、
そもそもがルネサンスの滑らかな表面の絵画すら、、
現代の"デジタル画像や、印刷物"とは全く相入れない、(彫刻とはまた違う意味での)立体造形物なのだと思います。
世界が"デジタル"で溢れるほど、むしろ、
絵画は実際は"全く平面ではない"ということが明らかになって行く気がしています。
もう一つ、、彩花さんの、、
"どんな状況下でも、自分の目に映るものに対して自分の色を持って、自分の造形を持って取り組んでいく"
という言葉、、、、 もうすぐ終戦の日、、、、
やっぱり、考えないわけにはいかないのかもしれません。
僕は絵画の"本質的非二次元性"とは別に、、、、
ずっと前から考え続けていることがあります。。 全く違う観点ですが、、
"画家とはなんと苦しく、呪われた仕事か"
ということを感じています。
全ての才能ある画家はキリストに等しいのではないかとすら感じます。
無理解な多くの人に囲まれながら、美や存在の探求の責任を果たそうとする哲学とはなんなのか、、、、
軽蔑するべき人間から蔑まれ、鞭打たれながら。。 "画家であろう"
として、真の画家であることはできない。
と感じます。
画家であることしかできないのが真の画家なんだと思います。
僕はここ1年以上の最近、、"なぜ全ての作家は作品を作るのか。なぜ作らなければならないのか。作ることを放棄してはいけないのか。。"
そんなことばかりを考えています。。 でも、
"なぜ自分は作らなければならないのか、作ることを拒否する権利はないのか"
その答えに少し近づくと同時に、自分の描くべきものが見えてくるような気もしているんです。
nagoya.yori1010
名古屋より。彩ちゃん。2019/08/16 Juice=Juice金澤朋子「eスポーツ スターリーグ 第三回 スターバトル チャンピオンシップ」出演! 芸能人チームによるeスポーツ大会「eスポーツ スターリーグ 第三回 スターバトル チャンピオンシップ」に、Juice=Juice金澤朋子の出演が決定!
【イベント名】eスポーツ スターリーグ 第三回 スターバトル チャンピオンシップ
【日程】2019年8月16日(金)
【開場 / 開演】13:30 / 14:00
【会場】テレビ朝日・六本木ヒルズ夏祭り SUMMER STATION
六本木ヒルズアリーナ特設ステージ
【入場料】無料 (当日、整理券を配布)
※入場に関して、詳しくはイベント公式サイトをご確認ください。
【公式サイト】http://essl.jp/3rd/
【公式Twitter】https://twitter.com/essleague
【配信】イベント当日、YouTube Live・OPENREC.tvにて生配信あり。
syoori_ch
どんな状況下でも目に映るものに対して自分の色を持って造形に取り組む姿、表現者として素晴らしいですね。表情を見い出す事が出来なくても色彩でメッセージ性を表現してると受け取れます、ただでは転ばないのが表現者でしょう。女性がカフェで酒とタバコを吸う絵をボヤかさないといけない環境下だったのだと嘆かわしい面がありますが、しかし、女性を彩る色彩は、緑やピンク。ピンクでは活発さ・若々しさを感じ、頭の緑帽子では自然体や女性らしい神秘性で強さを感じ、またお酒とタバコそして黒い手袋では、その時代への反発心や反抗心と受け取れます、「女性をナメるな」って感じで頼もしいです。しかしながら顔はグレーという曖昧な色。現実は甘く無いのかなと伺えます。 私には専門的な知識はないので、正解か否かというはわかりませんが、絵を楽しむとはこういうことでいいのだと思います^^
gris_bleu_official
彩花さん、あいちトリエンナーレに出られるんですね。僕も行かないといけないような気がしてしまいます。
行けるかな。。
僕は大阪ですが、実は名古屋に行ったことがほとんどないんです。
ところで、あいちトリエンナーレの撤去騒動について、、
橋下徹さんがおっしゃっていたことに共感しました。
"もしアートだというなら、対立する意見を表現した作品を併置するべきだ。"
ということでした。
つまり。
"自分の体を売って稼いだ金を見て、満足げに笑っている慰安婦。の作品も並置したらならば、公平なアート表現だ。"
とおっしゃってました。
アートがアートであるためには、一方的な政治主張を代弁することなく、"客観的でニュートラル"であることが必要なんだ。。と気付きました。
beans_lover
描かれた人物は女性でしょうか?チュール付きのベレー、短く整えられた髪型…左手付近の表現も気になります。肘まであるような黒の長いグローブか、煙草の灯で手元に光と影の陰影が生まれているのか…。1945という制作年代からすると、比較的裕福であり、サロンでの時間を謳歌できる人…つまり作者自身?🤔戦争の不安をかき消すように、カフェで享楽に耽っていたのかも知れません🤔明日をも知れぬ時代、脆さと強さ、軽薄さと優しさが共存しているかのような作品ですね😆長い感想ですいません😌
tonarinondeg
戦時下でも楽しい話をしていたのか?取るに足らない世間話なのか?はたまた
戦時下の鬱屈とした空気によるところの愚痴なのか?
表情を描いていないことが
戦争なんか…と思う作者の気持ちなのか?描くに耐え難い疲れた表情だったのか?あの時は…と未来で笑い話にしたいと思う気持ちからなのか?表情を描いてないというのは色々な想像とその時代とはどんな時代(時期)だったのかを想像する技法としてはなかなかなものですな😱
それとも描かれた方には
笑っていて欲しかったのか?🧐
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2019/8/8